【火垂るの墓】と兄妹の秘密
こんにちは。
「火垂るの墓」という有名な作品がありますね。
野坂昭如さん原作、高畑勲さん監督作品の感動的なアニメーション作品です。
舞台となるのは終戦間もなくの、昭和20年の神戸。
空襲で母を亡くし、疎開先である親戚に身を寄せる清太と節子、まだ幼いふたりの兄弟の物語です。
内容はご存じの方が多いでしょうから、省きます。
こちら、1988年の公開当時は「となりのトトロ」と同時上映だったというのですから、豪華で驚きますよね。
そんな「火垂るの墓」。
14歳の清太と4歳の節子が手を取り合い、けなげに生きようとする物語に思えます。
しかしBBAになってから意地悪な目で見てみますと、けっこう意外な解釈が出来たります。
問題は「親戚のおばさんの家を2人が出てから」についてです。
口うるさい親戚のおばさんの家を出て、池のそばの暗い「横穴」に住みついた2人。
清太のその行動は一見、兄として妹を守るための行動だったように思えます。
しかし案の定といいますか、2人を邪険に扱うおばさんの存在がなくとも、虫の多い湿った暗い場所で生活をするうちに、節子の体調は目に見えて悪化してゆきます。
まだ4歳の節子が病気であるとわかっても、清太は兄として、自分の考えも行動も改めようとしないのです。
「仕方がない」と思っているのか、何も手を打たないところに疑問を感じます。
「おばさんに謝って、またあの家に置いてもらえ」という農家のおじさんの説得にも耳を貸さず、ガンとして横穴から移動しない清太。
目の前の幼児が体調を崩しているとなれば、保護する立場にある者なら「やばい、なんとかしないと」と焦ります。
しかし、清太にはそうした焦りとか思いやりが感じられません。
このあたり、兄による妹への「代理ミュンヒハウゼン症候群」という見方もできます。
コレは傍目にはそうとわからず、むしろ周囲からは虐待を行なっている本人自体が「献身的」と思われているので、すぐには発覚しづらいのが特徴です。
それを行うのは殆どが女性であり、母親です(わが子に、看病を装った虐待を行うのです)。
男性の場合には珍しいと思います。
清太の場合は、「節子の兄であり母である」という保護者のような立場です。
すでに亡くなっていた、母の憑依もあったかもしれません。
何しろ、お母さんはご供養されていませんから、母親として「可愛い節子と一緒に居たい」「早く連れて行きたい」という、わが子への念や執着があったことは否めないと思います。
あくまで、想像ですが。
当時、子供だけで当てもなく疎開先の親戚の家を出ることは、生きるための「命綱」を捨てることを意味します。
隣組に属していないと配給が貰えないですからね。
幼い節子がそれを知らなくとも、14歳の清太がそれをわかっていないハズはないからです。
なのに、感情にまかせて親戚のおばさんの家を出てしまった訳ですから、先々、どうするつもりだったのでしょうね。
この時はまだ夏でしたが、真冬ともなれば、とても生活などできなかったと思います。
暗く湿った横穴で生活しながら彼は、幼い妹が日々衰弱していく様子を、ただ観察しているようにも見えます。
親の残した貯金がいくばくかあることを、この時の清太は実は知っています。
しかしそのお金で節子にたいしたケアもせず、放置しています。
兄として心配を装いつつも、幼い妹を確実に死に追いやっていることに改めて気づきます。
そもそもが「横穴」と呼ばれる、墓場を連想されるような不吉な場所。
そこに住むことを決めた段階で、清太はすでに無意識下で、生きることをあきらめていたように思います。
タイトルもなにしろ「火垂るの墓」ですからね。
親切な農家のおじさんの忠告も虚しく、すぐに妹を飢えさせ、空襲のたびに泥棒を繰り返すようになる清太(盗み食いしているから、節子より元気です)。
ある夜、野菜泥棒までしでかし、屈強な農家のおじさんに捕まってボコボコにされたりもします。
その際に「妹が病気なので、精のつくものを食べさせてやりたくて」などと言い訳をします。
そんな状況にまでなっているのに、頭を下げて、また親戚のおばさんの元へ戻るということだけはしないんですね。
自分で「妹が病気なんです」と言っているのに。
その後も相変わらず、不衛生な横穴に2人して居続けます。
「そこにいるからこそ妹が衰弱して死にかけている」のに、彼は行動を変えず、反省も後悔もせず、平気で人様のものを盗み、ウソをつき、自分を憐れむ時にだけ泣きます。
実際、母の死にも妹の死にも、涙は流れていません。
これは、徐々に心が壊れて、清太の人間性が薄れていく現れだったかもしれません。
不幸な亡くなり方をした人の、ご供養していない遺骨をそのままにしておくのも霊的には良くないと思います。
何しろ、母の遺骨は横穴に置きっぱなし。
妹の遺骨はドロップの缶に入れっぱなし。
お世話になった親戚のおばさんや、親切にしてくれた農家のおじさんにもワガママな態度をとり、礼儀を欠いたままそれっきり。
これでは誰にも助けてもらえません。
そんな清太の最期は、自業自得です。
そして(表面上では)愛する妹と一緒に、ひたすら破滅的な方向へ向かうということは「心中」ともとれます。
「戦時中だから」というのとは、なんかちょっと関係ないと思います。
彼らを気にしてくれていた大人は、常に周囲に居た訳ですから。
「助けてください、妹が病気なんです。僕が間違っていました。またこの家に置いてください」と頭を下げて言えば、おばさんだって鬼ではないのですから、また家に置いてくれたでしょう。
そもそもが、おばさんに虐待されて家を飛び出したわけではないのですから。
それなのに野菜泥棒や、空襲のたびに火事場泥棒だけは欠かさずに行うのです。
清太に足りないものは「謙虚さ」と「思いやり」だったと思います。
海軍将校の長男として生まれ、たいした苦労もなく育った清太には「人に頭を下げる」「耐え忍ぶ」「利他心を持つ」ということが、決定的に欠けていたのかもしれません。
裕福な家庭で、何不自由なく育ってきた彼の、初めての挫折はあまりに大きすぎました。
14歳という年齢は、まだまだ子供です。
空襲で母を失い、のちに父の戦死を知り、戦争によって何もかもが以前とはまるで違う環境の中、妹の面倒まで見なくてはならなかったのですから気の毒です。
誰も清太をいたわらなかった、という点においても。
彼も彼で十分、傷ついていたのです。
しかし「以前とは何もかも違う」ということを理解せず、態度も改めず、終始「エラそう」であったことが彼の最大の不幸であったと思います。
おばさんも「あの子らには、可愛気というものがない」とこぼしていましたし(兄を見ているからか、節子も似てしまったのでしょう)。
コレを見て、「こういう生き方をしないようにしよう」という教訓にはいいかもしれません。
いい話かと思ってたら、違うじゃん。
目の前の妹が日々、衰弱してゆくのに、おばさんのもとへは決して帰らなかった訳ですから、節子の死は清太がもたらしたことなのです。
何かといえば「妹」を理由にして何もしない清太に、嫌味くらいは言ったとしても、身寄りのない2人を預かってくれていたおばさんは、本当はありがたい存在だったのです。
改めて見ると、こういう見方となりました。
あくまで、ひとつの解釈です。
兄弟間での「虐待・心中」ということをテーマにして見ると、全くもって泣けなくなります。
一般的に可哀想、とか美談に思われていることでも、ちょっと解釈を変えると物事の裏が見えてきますよね。
清太の中の「いやだいやだインチャ」、彼はそれを癒さないまま亡くなってしまいました。
住む場所もあり、保護してくれる人も居たのに、清太は「自分の思った通りに過ごせない」というワガママによって、みずからその「幸せ」を投げ捨ててしまったのです。
いつか、自分の過ちに気づくまで永遠に少年のまま、この世をさまようのでしょう。
兄によって命を失った節子とともに。
たとえばドラマでも映画でも日常生活でもいいですが、家族内で、「ひとりだけ病んだり不幸になる人がいる」ということがありますね。
そういう場合、必ず「そうなってほしい誰か」が身近にいたりするものなんですよ。
それは、純粋に「それが楽しいから」です。
虐待というものは、このように、目に見えない部分でも作用します。
インナーチャイルドが多いと霊性が低下してしまい、自分だけではなく、他者をも不幸にしてしまいます。
あなたの中のインナーチャイルド、癒してゆきましょう。
年始年末の予定:12月28日(土)~1月5日(日)までお休みです(この期間はお客さまからのメールの返信もお休みさせていただきます。ご了承くださいませ)。
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